うまレターコラボ
仲野光馬騎手インタビュー
人馬がつなぐ船橋ストーリー
第6回
中央・地方の垣根を越えて、競馬業界全体の活性化を目的に発行されるフリーマガジン「うまレター」とのコラボレーション企画の第6弾!
今年7月14日、3歳ダートチャンピオンを決める「ジャパンダートダービー(JDD)」で、渋谷信博厩舎のキャッスルトップが12番人気で大金星をあげました。今回はその立役者、キャッスルトップの主戦である仲野光馬(かづま)騎手にお話を伺いました。
――改めまして、キャッスルトップでのジャパンダートダービー制覇おめでとうございます!2か月ほど経ちましたが現在の心境はいかがですか?
仲野 今は余韻は残っていなくて、次のレースに向けてという気持ちです。
――まずは2歳時のキャッスルトップから振り返っていただきましょう。デビュー前、跨った時の印象はいかがでしたか?
仲野 船橋に来てからは僕がずっと調教をつけています。まずは能力試験に合格しなければならないのですが、それはクリアできそうな印象でした。瞬発力に良いものがあったので芝向きなんじゃないかと思うくらいのスピードを当時から感じていました。脚を持続させられるかどうかはこの時点では分かりませんでした。
――初勝利まで時間はかかりましたが、その間はどのような気持ちでしたか?
仲野 気性的に競馬の方を向いていないところがあって、覚えさせながらでしたので悲観はしていませんでした。デビュー3戦目が「これで勝てなかったのか…」というレースだったので、そこだけは悔しかったですね。賞金も稼いだので相手も強くなるし、しばらくは大変かなと。ただ、今のようにスタートが確実に切れて先手が取れるという状況ではなかったですし、長い目で見て競走馬としての寿命が延びるようなレースをしていました。先々がある馬だと意識していましたから。
――デビュー9戦目で待望の初勝利。ここから逃げる競馬で3連勝をあげましたね。馬の成長はいかがでしたか?
仲野 初勝利の時は内田利雄騎手が騎乗したのですが、次のレースで僕に回ってきたときに感じたのは気性的なものが大きいのかなと。肉体的にも追いついてきましたしね。この馬は後ろから馬がこないとフワッとするのですが、その時、止まってしまうような感覚になるんです。それなのにラップを見ると11秒台で走っていて。この時に「出会ったかもしれない」と思いました。このレースは長年コンビを組んできた厩務員の城市幸太さんとの初勝利でしたが、ガッツポーズはしませんでした。戻ってきた時、城市さんに「ガッツポーズしたか?」と聞かれたんですが「こんなところじゃしないよ」って答えたんです。「この馬で重賞を」という騎手人生で一番のものを感じました。
――重賞級のレベルの馬だと悟ったのですね。
仲野 そう感じたのは川島正行厩舎にいたおかげでもあるんです。調教だけですが、オープン馬の背中を知っていたので。クラーベセクレタやマズルブラストのような一流の馬の攻め馬に乗った時、良い意味でのプレッシャー、怖さみたいなものを感じたんです。キャッスルトップは2連勝した後くらいからそういうプレッシャーが出てきました。自分が競馬に乗る馬の中ではこの馬が初めてだったので、これは大事にしようと思い始めていました。
――JDDまでは1600mまでの距離に出走していましたが、この時点で距離適性はどう考えていましたか?
仲野 父のバンブーエールもJDDで2着でしたし、母父がマヤノトップガンですからね。馬の気性的にはやってみなきゃわからないなと。逃げるわりにはムキにならず、これまでマイナスだった気性面がプラスに転じていましたし。2000mの距離適性というよりは、気性的には大丈夫かもしれないとは思っていました。
――JDDに向かうことに関してはいかがでしたか?
仲野 僕も「JDDに行きたい」という話をしていました。というのは、黒潮盃を本気で狙おうという気持ちがあったからなんです。初馬場を気にするかもしれないと思って。初めて川崎競馬に遠征した時、馬運車にも入らないし、返し馬も集中せずゲートも5分以上入らなくて。この時は気性が悪い方に向いたレースになってしまいました。だから、一度大井で走らせたいなと。
――その時は黒潮盃が目標だったわけですね。
仲野 はい。なので、ずっとJDDの登録馬をチェックしていて、3連勝した時のレース(水無月特別)を勝てば出られるんじゃないかと。正直、負ける想定はしていませんでした。他の厩務員さんに「前走が強かったから良いレースできるんじゃない?」と言われた時も、「そりゃそうだよ、JDDに行くんだから!」って答えたくらいです。実際は古馬初対戦で苦しい競馬になったのですが、強い勝ち方をしてくれました。
――そして、仲野騎手とのコンビでJDD出走が決まりました。その時の心境は?
仲野 出馬表を見た時、僕の名前で安心しました(笑)。「一発やってやろう」と「今後の良い経験になれば」という両方の気持ちでしたね。
――枠順は8枠12番でした。
仲野 戦法は僕にすべて任せてくれていたので、枠順が出る前から展開についていろいろと考えていたのですが、発表されてますます難しいなと。「12番枠をプラスに考えなくては」とは思っていました。アイネスフウジンやカブラヤオーが逃げて勝った日本ダービーも12番枠でしたし(笑)。
――では、実際のレースを振りかえっていただきましょう。先手を取り、後続を少し離した逃げになりましたね。
仲野 ゲートが開いた瞬間、すでにロードシュトロームより半馬身出ているような好スタートだったので、もう行けると思いました。下手に抑えずに、自分のペースでいきました。
――道中はどんなことを考えていましたか?
仲野 向正面あたりでは「完璧だな」と思っていました。いろいろと悪い想定もしていましたが、「こうなれば理想だな」と考えていた流れになりすぎていましたね。3コーナーくらいで「そろそろ後ろがきてくれないかな」と思っていたところ、みんながじわっときてくれました。そうしたらキャッスルトップもハミを取ってくれたんです。早すぎず遅すぎず良いタイミングで。そこまでの2ハロンが楽できたので、この段階では1600mまでしか走っていない不安はなくなりました。
――直線は見ているこちらもかなり力が入ったのですが、ご自身はいかがでしたか?
仲野 興奮はしていましたが、記憶は鮮明です。直線に入った時は「ロードシュトロームとウェルドーンがきているな」と思ったので、外に併せにいきました。ここまで本当に完璧だったので、「よかったぁ。あとはどこまで粘れるかな。5着くらい拾えればたいしたものだ」なんて思っていたんです。瞬発力勝負にはならないようにペースもじわっとあげていたし、これで一気に飲み込まれることにはならないだろうなって。
――ゴール前は中央勢が押し寄せて大激戦でしたね。
仲野 最後はゴッドセレクションの中井騎手がすごい勢いで叫びながら迫ってきたので、僕も熱くなって「負けないでくれー!」って叫びながら馬を鼓舞していました。勝ったのは分かったので「よっしゃー!」と叫んでガッツポーズをしました。あそこまできたら勝たないと。「2着だったら悔やんでも悔やみきれない。一生悔いが残る」と思ったので、本当に嬉しかったです。
――この時もそうですが、仲野騎手のガッツポーズは気持ちを全面に出すようなイメージがあります。
仲野 今までは「こういうガッツポーズをしよう」とか「カメラがきた瞬間を狙おう」とか、いろいろと考えてやっていたんですよ。でも今年は全然やっていなくてJDDの時だけ。自然とあのようなポーズになりました。狙っていないのが一番いいかもしれないですね(笑)。
――レースから戻ってくると周りのみなさんが嬉しそうに声をかけている様子が印象的でした。
仲野 大井の調整ルームから、もともと同期だった千田(千田洋騎手)と横川(横川怜央騎手)が、風呂に入りながら見ていたのか2人とも裸で出てきたんですよ。それに気づいたので、僕もそちらに手を振りました。レースから戻ってきた時は川島光司(故川島正行調教師の御子息で騎手のバレット)が真っ先に来てくれて「すげーな!!!」と。皆さんに祝福してもらいましたが、他の地方馬が勝つのとは違う驚きというか、「お前かよ!」みたいな雰囲気もありました(笑)。重賞ではなく特別レースの地方交流を勝っても驚かれると思うので。
――憧れの武豊騎手にも声をかけてもらったそうですね。
仲野 「おめでとう」と言ってもらいました。嬉しかったですね。豊さんが29歳の時に初めて日本ダービーを勝った姿を見て「カッコいい」と思ったのが騎手を目指した理由でもあったので、すごく感慨深いものがありました。返し馬が終わった待機所でも後ろに豊さんがいて、前には横山典弘騎手。「これはシャキッとしないとな」と思いました。以前、豊さんのインタビューで「乗っている姿を見れば、その騎手の大体の能力が分かる」と言っていましたし。「今まで培ってきたものを出さなきゃ」ってめちゃくちゃ意識していました(笑)。ただ、スタート直前の輪乗りの時はその気持ちは自然と消えて、レースに集中していましたね。
――JDDを勝って自分の中で気持ちの変化はありましたか?
仲野 JDDの後というより、キャッスルトップが2連勝をして「この馬で重賞を目指そう」と思った時から生活をすべて切り替えました。自分の乗り方も含めて。今はこの馬のために生きているという感じです。それが相乗効果で他のレースに繋がることもあると思います。でも僕の求めているものはまだまだなので、完成したら競馬の常識を覆すような良いものを見せられると思います。親ってこういう気持ちなんですかね。自分が犠牲になってもこの馬を守らなければいけないという気持ち。誰かを守るということを真剣に考えさせられています。
――キャッスルトップの強味を教えてください。
仲野 今はスタートダッシュもいいですし、瞬発力があるのでそれを活かせるのが最初のアドバンテージで、そこからの息の抜け方というのがまたストロングポイントです。最初のダッシュから折り合いがつかない馬も多い中で、その心配がありません。ただ、ひとつ間違うとまったく走る気をなくしてしまう可能性もある馬なので、そこを僕がどう誘導するか。普段の調教も、この馬に合わせたやり方で行っています。
――次に、ご自身の騎手人生についてうかがっていきましょう。2008年に地方競馬教養センターに入学されましたが、卒業間近に退所されたそうですね。
仲野 実は僕、渋谷信博先生の一番弟子なんですよ! 船橋の実習で渋谷厩舎にお世話になっていて。でも体重調整や馬乗りなどいろんなことがうまくいかなくなり、自暴自棄になってしまって…。でも、10年以上の時を経て、こうして渋谷厩舎の馬とコンビでJpnⅠを勝つことができたのですから、運命ってすごいですよね。
――教養センターを辞めた後は一般の仕事をされたんですよね?
仲野 はい。派遣で働いていました。さまざまな仕事をやってみましたが、どれも時間が経つのが遅いんですよ。競馬の世界って大変だけど一日があっという間。それだけ充実しているんだと思うし、毎日同じことは起こらないですしね。「このままでいいのかな」と考えていた時期に、ごみ収集の先輩に言われたんです。「夢を持って仕事をすることはいいことだよ。素晴らしいことなんだよ」って。その言葉が胸に刺さりました。それで「もう一度挑戦しよう」「次は中途半端にはできない」と思った時、頭に浮かんだのが川島正行調教師でした。
――あえてトップトレーナーのところに行こうと?
仲野 逃げ場をなくすじゃないですけど、一番厳しいところに身を置くことで「そこを辞めたら次はないぞ」というプレッシャーを自分自身に与えました。実習期間で一度だけ川島先生にお世話になったのですが、その時に「この人だけは違うな」という大物感がすごかったんです。そして手紙を直筆で送りました。これは後から聞いたことなんですが、当時、同じような手紙が川島先生にはたくさん届いていて、なかなか目を通してもらえなかったそうなのですが、息子の川島光司がなぜか気になって、僕の手紙を開けて読んだらしいんですよ。それで「おやじ、この手紙読んだほうがいいよ」と言って川島先生に手渡し、読んだ瞬間に「うちに来い」ということになったそうです。
――川島光司さんは恩人ですね。
仲野 そうなんです。そういうこともあったので、JDDを勝った時も真っ先に駆けつけてくれたんですね。光司とは感性が合うんですよ。熱いところとか競馬オタクなところとか。川島先生が亡くなった時も「これからどうするか」って泣きながら飲み明かした夜もありました。
――川島厩舎では調教専門厩務員として4年間働きました。いかがでしたか?
仲野 良い経験をさせてもらいました。今の若者が同じ状況で入ったらすぐにやめると思いますよ。土木作業のようなこともたくさんしました。でも自分がやりたくてやっていることだし、職人の下積みと考えれば耐えられました。入ってすぐにお世話になった厩務員がマグニフィカを担当していた多田さんで、JDDにもついて行ったんです。やっぱり「世界観が違うな」と実感しましたね。多田さんも僕がJDDを勝ったことを喜んでくれて、当日電話をくれました。
――先ほど、クラーベセクレタの話も出ましたが、川島厩舎のオープン馬に跨ったことは大きな経験になりましたね。
仲野 クラーベセクレタのようなクラスだと佐藤裕太さん(元騎手・現調教師)が攻め馬で仕上げていくのですが、裕太さんが骨折して乗れない時期があって、しらさぎ賞の前の1か月間、僕が代打で調教担当になったんです。勝って当たり前の重賞出走ですから、ものすごいプレッシャーですよね。負けたら自分のせいになるし、緊張の1か月間でした。勝ってくれて本当にほっとしました。あぁ、これが仕事したってことだなって(笑)。それと、良い背中と走る背中は違うということも学びました。オープン馬でも乗り味が良いとはいえない馬もいるんですよ。ただ馬がグッと本気を出した時に感じる怖さのような感覚、これが力なんだなと。この経験は財産ですね。
――騎手試験は4回目の挑戦で合格。川島先生は喜んでくれましたか?
仲野 はい。当時、川島調教師の体調もあまりよくなくて厩舎にもなかなか顔を出せない状況だったのですが、報告をした後、今後についていろいろと話をさせてもらいました。あそこで合格していなかったら、川島厩舎の人間として受かっていなかったですしね。すぐに騎手としての準備をしなければならなかったし、身が引き締まる思いでした。
*川島正行調教師は2014年9月に逝去されました。
――そして、2014年6月に24歳という年齢でデビューしました。今年で8年目ですが、ここまでを振り返っていかがでしょうか?
仲野 歩みが亀ですよね。亀は亀の強味を活かすしかないのかなって感じですね。今31歳になりましたが、30歳を過ぎてから第六感というか「直感を信じてみよう」と思うようになりました。これまでは自分の中で複雑に考えすぎてわけがわからなくなったり、データに当てはまらなかったら直感なんて信じないところがあったのですが、それをもっとシンプルに考えようと。だから、キャッスルトップに乗って「出会ったかもしれない」と感じた直感を信じることもできたのだと思います。
――意識している騎手はいますか?
仲野 「良いものは良い」というのは、すべてのジョッキーにいえることです。その中でも熱くなる騎手が好きですね。現役ではクリストフ・スミヨン騎手です。以前、2歳馬がウィナーズサークルで口取り撮影をする際、「このカメラはやめてくれ」「フラッシュはダメ」など、自ら馬のガードをしていたんです。目の配り方が全然違うんですよ。自然に馬を守っている。そういうことってどうしても僕たち日本人ジョッキーにはできないこと。スミヨン騎手は大胆さと繊細さを兼ね備えていて凄い騎手だと思います。日本人では横山典弘騎手です。川崎に乗りに来られていた時に、騎乗前のレースで故障した馬がいて馬運車で運ばれたんです。その時、横山騎手がずっとその様子を見ていたんですよ。その佇まいを見て「この人は本当に馬が好きなんだな」と思いました。これぞホースマンという感じで。だから魅せる競馬ができるんだろうなと感じました。
――子供の頃から競馬が好きだったと聞きましたが?
仲野 小学4年の頃の方が中央競馬を見ていたんですよ。なにせ小4で開門ダッシュをしていたんですから(笑)。良い席を取って、1レースから12レースまで競馬場で見ていました。そして家に帰ると、録画していた中継を見直してノートに書いたりしていたんですよ(笑)。
――競馬以外の趣味はありますか?
仲野 最近はプロ野球です。マリーンズの応援をしています。もともと川島厩舎時代に、山下貴之騎手(現調教師)と見に行っていたんです。暇な時は、プレイボールの前から外野席を陣取って(笑)。あの時は2人ともあまり仕事がなかったのに、今やジーワントレーナーとジーワンジョッキーになってしまって。人生って面白いですよね。その野球熱がまた再燃して、今年はゴールド会員になりました。配球にもはまっていて、パ・リーグTVを見ながらスマホの速報で一球一球のスピードなどを確認して、次はここに来るだろうなんて予想したりしています。小4の時の競馬オタクの感じが今は野球に向いていて、懐かしい感覚ですね。
――今後の目標を教えてください。
仲野 まだ妄想の段階ですが、叶えられれば本当に物語になるなという夢がひとつあります。それを達成するためにジョッキーとして生き残らなきゃと思うし、実力で勝負できる騎手になりたいです。13年後の話なんですが、それがどんな目標なのかは達成した時か、その直前になったら公表します。そして一番の目標は、キャッスルトップと重賞を勝って表彰式がしたいということです。今はコロナ禍で表彰式を行っていませんから。厩務員の幸太さんのことを皆さんに知ってもらいたいんです。やはり幸太さんが一番強い気持ちでキャッスルトップを育ててくれていますからね。一緒に表彰台に立ちたいというのが今の願いです。
――本日はいろんな興味深いお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
取材・文/秋田奈津子
※取材日/2021年9月7日
≪過去の特集記事≫
●第1回 森泰斗騎手インタビュー
●第2回 サウンドトゥルーを訪ねて。
岡田牧雄さんインタビュー
●第4回 フリオーソを訪ねて。
ダーレー・ジャパン スタリオンコンプレックス 加治屋正太郎さんインタビュー